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トリビュナルとは何者か その4|アッシュランダーの伝承とネレヴァルの死
【TES世界観解説】トリビュナルとは何者か その4|アッシュランダーの伝承とネレヴァルの死
前回はこちら トリビュナルとは何者か その3|誓いの終わり、そしてトリビュナルの誕生 https://nettoge.com/tes-tribunal-part3-broken-oath-apotheosis/ はじめに 前…
はじめに
その4では、ヴィヴェクの語る物語とアッシュランダーの語る物語——レッドマウンテンの戦いの「その後」をめぐる、二つの正反対の伝承を並べて聴きました。どちらが真実かはついに決められないまま、けれど二つの物語が揃って認めることが、一つだけありました。アルマレクシア、ソーサ・シル、ヴィヴェクの三人は、ロルカーンの心臓から神性を引き出し、生ける神となった——という、その一点です。
本章で辿るのは、神となった三人が、それからどう生きたのか。三千五百年におよぶ、その治世です。
奪った神性で、彼らは何をしたのか。意外に思われるかもしれませんが、彼らは長きにわたり、本物の神として崇められ、愛され、モロウウィンドを統べ続けました。空から落ちる月を止め、破壊の公を討ち、民に三千五百年の平和をもたらして。
しかし、果たして彼らは、本当に神となりえたのでしょうか?
私は第一章でこう書きました。そしてもう一度、改めて同じ言葉を使いたいと思います。
奪った者には、正史を書く資格が永久に回復しないのです。
第五章: 神々の時代
──神とは、何か?
ある者は、天地を創った遠い始原の力をいう。
ある者は、夜明けと黄昏を、生と死を、運命そのものを司る、人智の及ばぬ存在をいう。
エルフは祖先の霊を敬い、帝国の民は八大神に跪く。
灰の民は、夜と昼の境に立つ女神アズラを仰ぐ。
──神とは、定命の者が決して触れえぬ、はるかな高みにあるものだ。
誰もが、そう信じている。
ならば、その高みへ、定命のまま、昇りつめた者がいたとしたら?
レッドマウンテンの戦いののち、三人のチャイマーが、まさにそれを成し遂げた。ロルカーンの心臓から神性を引き出し、現人神となったのである。
慈悲の女神アルマレクシア。
神秘の神ソーサ・シル。
詩人にして戦士たるヴィヴェク。
──三つの顔を持つひとつの神。
アルムシヴィ。
………
彼らは、ただ神を名乗っただけの思い上がった僭称者ではなかった。彼らは、確かに神の御業を成したのだ。
──空から落ちてくる月を、片手で受け止めた。
──地の底に、世界そっくりの都を、まるごと一つ築き上げた。
──世の終わりを司る破壊の公を、その手で討ち果たした。
病める者を癒し、飢える者を養い、外つ国の軍勢を退け、三千五百年ものあいだ、この地に、ゆるぎなき平和をもたらしたのである。
これより語るのは、われらが三柱の神——慈悲のアルマレクシア、神秘のソーサ・シル、熟達のヴィヴェク、すなわち聖なるアルムシヴィが、この地に成し遂げたもうた、数えきれぬ御業の数々である。
その荘厳を、その栄光を、一つひとつ語り伝えていこう。耳を澄まし、心して聞くがよい。
これは、神々がモロウウィンドを照らした、黄金の世の物語なのだから。
詩人にして戦士、守護神王ヴィヴェク
守護神王。聖地ヴァーデンフェルの番人にして、地獄の門たるレッドマウンテンの闇から民を守る、絶えざる守護者。
モロウウィンドの主とも讃えられた、三柱のうち最も民に親しまれた神である。
半身は古きチャイマーの金色、もう半身はダンマーの灰色。男にして女、戦士にして詩人——ひとつの身に、あらゆる対極を宿す二元の神。彼はその長き御代を、無数の著作と奇跡に費やした。なかでも名高きは『三十六の教訓』。謎かけと暗号に満ちたその聖典は、来たるべき者への手引きとして書かれ、幾世代もの神官たちが、その一句一句に生涯を捧げて読み解こうとしたのである。
その武においても、ヴィヴェクは並ぶ者なき神であった。彼は、自らの身より生み出した聖なる槍ムアトラを振るい、世を脅かす数多の魔物を討ち取った。神でありながら戦士であり、戦士でありながら詩人である。槍を執れば英雄を凌ぎ、筆を執れば賢者を超える。
これぞ、ヴィヴェクという神であった。
そして——その力が、全モロウウィンドの前に示された、あの日。
ある時、空が燃えた。
一個の巨大な岩塊が、天の彼方から、まっすぐヴィヴェクの都めがけて落ちてきたのである。後にバール・ダウと呼ばれる、月のごとき巨岩。あれが落ちれば、都もろとも、すべてが砕け散る。民は逃げ惑い、絶望して天を仰いだ。もはや何ものにも止められはしない——誰もがそう思った、まさにその時。
ヴィヴェクは、静かに、片手を上げた。
すると、どうであろうか。落下していた巨岩は、都の真上でぴたりと止まったのである。落ちてくるはずの月が、神のただ一挙手のもとに、空へと縫いとめられた。
民は、声もなく地に伏した。
だが、守護神王の御業はそれだけにとどまらなかった。この災いをもたらした張本人は、狂気のデイドラ公、シェオゴラスであった。ヴィヴェクはあろうことか、その気まぐれきわまる公を交渉の卓へと引きずり出したのである。そしてひとつの約定を取りつけた。神殿の巡礼者が厄災の家への祈りを絶やさぬかぎり、シェオゴラスはヴァーデンフェルのダンマーを、狂気の災いから永遠に守る——と。
落ちてくる月を片手で受け止め、狂気の公すら膝を屈せしめる。これこそが、民が日々その頭上に仰ぎ見た守護神王の力であった。止められた月は、それより都の空に浮かび続け、ヴィヴェクの加護の、永久に消えることなき証となったのである。
民は、彼を愛した。畏れ、そして、親しんだ。神でありながらこれほど近くにある神を、ほかに誰が持ちえたであろうか?
神秘の神、時の建築家ソーサ・シル
神秘の神。時の建築家。オブリビオンを縛る者。職人と魔術師の守護者にして、三柱きっての叡智の神である。彼を讃える名は、いずれも深き畏れに満ちている。なぜなら、その知と業は、ほかの二柱をもってしても、底を測りがたいものであったからだ。
彼は地の底に、ひとつの世界を築いた。
クロックワーク・シティ——時計仕掛けの都。真鍮の回廊、天を衝く巨大な歯車、絶え間なく流れ落ちる稲妻の滝。草木も、けものも、空の色さえも、そこにあるすべてが、神の手によって設計された機械でできている。それは、硝子のドームひとつに収まるほど小さく、それでいて、内にひとつの世界をまるごと抱くほど大きかった。
なぜ、神が世界をもう一つ築いたのか?
それは、この淀みと歪みと苦しみに満ちた不完全な世界を——造り直すためである。
歯車のひとつひとつまで完璧に噛み合い、寸分の狂いもなく回り続ける、欠陥なき世界。ソーサ・シルは、その途方もない夢を、たったひとりで、地の底に組み上げ続けたのである。これぞ神の中の神にしてはじめて望みうる、最も大いなる御業であった。
その叡智は、世界の造作にとどまらなかった。
かつて、ギル=ヴァー=デイルというひとつの村が、デイドラの災いによって一夜のうちに滅ぼされたことがあった。これを憂えたソーサ・シルは、アルマレクシアに促され、自らオブリビオンへと分け入ったのである。それもよりにもよって、その災いを起こした張本人——支配の公モラグ・バルの領界、コールドハーバーへと。
そして八柱の最も強大なるデイドラ公——モラグ・バル、ボエシア、アズラ、ハーシーン、ハルメアス・モラ、マラキャス、シェオゴラス、そしてメエルーンズ・デイゴンを、その一堂に集わしめた。
定命より神となった、もとは一介の魔術師の身で、始原よりの神々にも等しきデイドラ公たちを交渉の座に着かせる。そして三日に及ぶ会談の末、ひとつの盟約を結ばせたのである。
素人の召喚には、断じて応じてはならぬ——と。
後にこの盟約は「コールドハーバーの盟約」と呼ばれ、長きにわたってモロウウィンドを無秩序なデイドラの跳梁から守ったのである。
民はめったにその姿を見ることはなかった。だが、知っていた。地の底のどこかで最も賢き神が、世界そのものをより善きものへと造り変えようとしていることを。それは、深き畏れであり、同時に、この上なき誇りでもあった。
慈悲の母、癒しの女神アルマレクシア
癒しの母。慈悲の貴婦人。母なるモロウウィンド。聖なる淑女。彼女を讃える名は、いずれも温かな光に満ちている。彼女は、貧しき者と弱き者の、揺るぎなき守護者であった。
その都モーンホールドは「愛と慈善の都」と呼ばれた。女神は、高みの神殿にふんぞり返ることをしなかった。自ら民のあいだへと降り、貧しき者の戸を叩き、病める者の枕辺に座り、迷える者の手を取った。子らのためには、心に染み入るやさしい寓話の数々を、自らの筆で書き残した。神が手を伸ばせば届くところにいる。触れられるところにいる。母なる神に抱かれて生きるとは、これほどまでに心強きことであったのか——
民は、日々その慈悲に涙したのである。
だが、忘れてはならない。この慈悲の母は、民を脅かす者の前では、いかなる戦神よりも苛烈であったことを。
そして、運命の日が訪れる。
事の起こりは、一人のダンマーの魔女であった。名をトゥラーラ。彼女は幼き娘を無残にも殺された。真の下手人は別にあったのだが、彼女は欺かれ、我が子を手にかけたのはモーンホールドの公その人であると、固く信じ込まされていたのである。狂おしい憎しみのうちに、魔女は禁断の名を呼んだ。
よりにもよって、世の終わりと滅びを司る、最も恐るべきデイドラ公——破壊の公メエルーンズ・デイゴンを。
あろうことか、この召喚はコールドハーバーの盟約が結ばれて、わずか数ヶ月での出来事であった。八柱の御前で交わされたその約定を、デイゴンは結んだそばから踏みにじったのである。
破壊の公はその軍勢を率いて、愛と慈善の都モーンホールドへと襲いかかった。公の軍は四日のあいだ、城に拠って必死に持ちこたえた。だがついに城は陥ちる。降り注ぐ猛火は噴き上がる炎の奔流となって都を舐め尽くし、その延焼を辛うじて押しとどめていたのは——倒れ伏した民の流れ出る血だけであったという。モーンホールドの公は討たれ、愛と慈善の都は、瞬く間に屍と瓦礫の山と化した。
知らせを受けたアルマレクシアの胸は、悲しみのあまり、溶けた青銅と化したという。
彼女はソーサ・シルとともに、破壊の公の前へと進み出た。そして、剣ホープスファイアを、デイゴンのその身に深々と突き立て、内側から斬り裂いたのである。傍らでは、ソーサ・シルが神の青銅でできた鞭を振るい、公を打ち据える。二柱の神は無数のドレモラの軍勢を相手に、凄絶なる死闘を繰り広げた。
そして——手傷を負ったソーサ・シルが、ついに公の真の名(ニミック)を囁いた、その刹那。破壊の公メエルーンズ・デイゴンは「全時間にわたって爆発」し、オブリビオンの彼方へと打ち返されたのである。
神秘の神の仕置きは、それだけでは終わらなかった。彼は、追放したデイゴンが二度とニルンへ戻れぬよう、その領界デッドランズへと通じる扉そのものを、固く封じてしまった。盟約を破ったその報いである。
「オブリビオンを縛る者」——あの異名は、この日、まことの意味を得たのであった。
慈悲の母は、その後、灰燼に帰した都を見捨てなかった。二柱の神の手により、廃墟の上には新たな都が築き上げられた。そしてその都を解き放った女神の功を讃え、人々はそこをアルマレクシアの名で呼ぶようになったのである。
民を癒すときは、どこまでも優しく。民を守るときは、どこまでも雄々しく。慈悲と武勇、その二つを兼ね備えた女神——それが母なるモロウウィンド、アルマレクシアであった。
神々の世
こうして三柱の神は、それぞれの御業をもってモロウウィンドを照らした。慈悲のアルマレクシア。神秘のソーサ・シル。熟達のヴィヴェク。三つの顔を持つひとつの神、アルムシヴィ。
その御代は、まこと、神話のごとき黄金の世であった。
神殿は、島々の隅々にまで壮麗にそびえ立った。白亜の尖塔は雲を衝き、黄金の祭壇は灯明に輝き、聖オーディネーターが、金の仮面の下から、ゆるぎなき秩序を見守った。
民は、朝に祈り、夜に祈った。「アルムシヴィの慈悲を」「アルムシヴィに讃えあれ」
——その言葉は、あらゆる家の食卓で唱えられ、あらゆる戦の前に呼ばわれ、あらゆる子の寝床で、母から子へとささやかれた。旅人は道に迷えば「アルムシヴィよ」とつぶやき、病める者は床に伏して「母なるアルマレクシアよ」と縋った。三柱の神は、民にとって、遠い天上の存在ではなかった。日々の暮らしの、ただなかにいる神であった。
奇跡の証は、そこかしこに残された。
民は、それらを仰ぎ見るたびに、思い出すのだった。我らの神は、空から落ちる月さえ片手で止め、世の終わりの公さえ討ち果たし、世界そのものを造り変えうるのだ、と。
これほどの神に守られて、いったい何を恐れることがあろう?
歳月が流れた。そして、また流れた
戦乱は鎮まり、飢えは遠のいた。外つ国の脅威は、ことごとく三柱の加護のもとに退けられていく。アカヴィルの海より異形の軍勢が攻め寄せたときも、伝え聞くところでは、慈悲の女神アルマレクシアが、はるか古の戦王の魂をすら呼び覚まし、その侵略を打ち砕いたという。
一年が過ぎ、十年が過ぎ、百年が過ぎ、千年が過ぎても、アルムシヴィの御代は、揺らがなかった。
神殿は、さらに高みへと昇っていく。
やがて神官たちは、こう説くようになった。神となった三柱の正統は、古き善きデイドラ——アズラ、ボエシア、メファーラさえもが認めたのだ、と。
いや、それどころではない。
かの古き三柱は、いまや来たるべきアルムシヴィの「先触れ」にすぎぬ。原初の未だ完成せざる、三柱の影にすぎぬのだ、と。
神々の上に、もはや神はない——神殿は、そう謳いあげた。
かつて民を導いた古き女神アズラを、自らの「先触れ」と呼ぶ。その呼び名のうちに、どれほどの傲りが潜んでいたか。それに気づく者は、もう、どこにもいなかった。
そうして、ダンマーは忘れていった。
自らが灰の肌と赤い瞳を持つに至った、あのアズラの呪いを、あの遠い罪のことを。
神々がかつて何をして、何を奪い、何を踏みにじってこの栄光を手にしたのか——そのすべてを、まばゆい黄金の光が覆い隠してしまったのである。
民はただ、生ける三柱の神に守られて在ることを世のあたりまえとして生きた。三千五百年。それは神々がモロウウィンドを統べた、長い長い黄金の世であった。
そして民は信じて疑わなかった。この栄光の御代が、未来永劫、続いていくことを。
——だが、
その栄光の、まさに足もとである。
島々を支える巨峰、レッドマウンテン。その奥底に、一人の亡骸が横たわっていた。
それは、遠い昔に、打ち倒され、追われ、地の底深くへと消えた者だった。
そして、誰もが、その死を信じて疑わなかった。
心臓と分かちがたく結ばれたその身は、戦いののち三千五百年、地の底で、朽ちることなく在りつづけた。
それは、眠っていたのだ。
神々が地上で栄華を極めた、その同じ歳月を。
ただの眠りではなかった。それはその間にも、心臓からより深い力を引き入れ——そして、夢のなかで、ひとつの企てを練り続けていた。
神々を玉座から引きずり下ろし、この地のすべてを、つくり変える企てを。
第二紀882年。地の底で、それは眷属とともに目を覚ます。底より這い上がり、いまも脈打つロルカーンの心臓の間へと、音もなく至った。
かつて、忠臣ヴォリン・ダゴスと呼ばれた男——だが、もうその名で彼を呼ぶ者はいなかった。
——それの名は、ダゴス・ウル。
解説 ──黄金の世を、問い直す
ここからは、いつものように物語を腑分けしていきます。
物語パートでは、神殿が語り伝えるままに、三柱の御業を讃えました。月を止め、破壊の公を討ち、世界を造り直す。まこと、神の所業です。
けれど私たちは、この三人が何者であったかをすでに知っています。主君を裏切り、誓いを破り、その死にすら関わったかもしれない、三人の定命の者。彼らは神に生まれたのではありません。ロルカーンの心臓から、神性を奪ったのです。
ならば、ひとつ問いかけてみたいことがあります。
神とは、何かを司る者です。アズラは夜明けと黄昏を、生と死を、運命そのものを司る。導きを与え、信を授け、その背を見て人は生きる道を知る。チャイマーをこの地へ導いたのも、ネレヴァルの帰還を時に刻んだのも彼女でした。
司るとは、そういうことです。
では、トリビュナルは?
月を止め、魔神を討ったこの三柱は、いったい何を司ったのでしょうか。
神という衣を脱がせて、もう一度あの御業を見つめ直してみたいと思います。それが、何かを司る者の業なのか。それとも、神を演じる者の業なのか。
月を止めた手は、何を縛ったのか ──バール・ダウ
バール・ダウはヴィヴェクの都の上空に浮かぶ巨大な岩塊です。別名を「嘘の岩(ライ・ロック)」。神殿の伝承ではデイドラ公シェオゴラスが都を滅ぼすために投げ落とし、ヴィヴェクが空中で静止させたとされています。
その出どころには複数の説が並存しています。
| 伝え | バール・ダウの正体 |
|---|---|
| 神殿の通説 | シェオゴラスがトリビュナルへの報復に投げ落とした |
| 『三十六の教訓』系の伝承 | ヴィヴェクとモラグ・バルの異形の落とし子 |
| 別の伝え | 岩自身が悪意のままに身を投げた |
| また別の伝え | 天界へ逃げ遅れ、二度と独りにならぬよう都へ寄り添った精霊 |
| オークの伝承 | マラキャスの糞だ |
てんでばらばらです。神殿の異端審問もついに公式の見解を出しませんでした。
要するに、誰も本当の出どころを知らない。神殿の異端審問官でさえ、その正体については、ついに公式の見解を出さなかったといいます。
確かなのは一つだけ。あの岩が落ちてこないのは、ヴィヴェクの神性が押しとどめているからです。
そしてこの一点は、とある事件で、残酷なほどはっきり実証されています。
第二紀582年、ヴィヴェクは原因不明の衰弱に襲われました。原因はスンナ・ラーという一本の杖です。ソーサ・シルがかつて三柱の神性を研究するために作った、神から神性を吸い出せる道具で、長く忘れられていたものでした。
クラヴィカス・ヴァイルの策略
この杖は、取引と契約を司るデイドラ公クラヴィカス・ヴァイルを、歪んだ形で崇める教団の儀式で呼び出され、やがてコヌーン・チョダラというアッシュランダーのアシュカン(部族を率いる長)の手に渡ります。チョダラは自らをネレヴァルの生まれ変わりと称し、諸部族を束ねて名家を倒そうとしていた男です(後の伝承は彼を偽りの化身と裁いています)。
彼はこの杖で、生ける神の力を密かに吸い上げていました。
チョダラを討ったのは実の妹セリンと、一人の英雄でした。セリンはアズラの代行者——女神の声を聞き、その意志を定命の世界で果たす役目を負った者です。三柱を呪ったあの女神がヴィヴェクの危機に手を貸した、神格化以来ほとんど例のない一幕でした。もっとも守る対象は神ではなく、ヴァーデンフェルの民のほうだったのでしょう。
杖は回収されました。ところが、それでヴィヴェクに力を戻そうとした瞬間、杖は逆に、残りの神性のほとんどを吸い出してしまいます。これを仕組んだのは、調査を取り仕切っていた大導師タルヴス——の姿をした、クラヴィカス・ヴァイルの猟犬、バルバスでした。
大導師とは神殿の頂点に立つ最高位の聖職者です。その本物のタルヴスはすでに眠ったまま病死しており、バルバスがすり替わっていたのです。ヴァイルの狙いはヴィヴェクそのものではありません。盗んだ神性の流れを辿って、ソーサ・シルが隠したクロックワーク・シティの所在を暴き、守りの結界を破って主を招き入れることでした。
クラヴィカス・ヴァイルはコールドハーバーの盟約に加わっていない三公の一人です。つまり、盟約の穴が六百年近くを経て突かれた形になります。
真理省
神性の抜けた都ではレッドマウンテンが目を覚ましかけ、火の雨が降り、バール・ダウが落ちはじめました。盗まれた神性が戻されたのは、岩が都に激突する寸前だったと伝えられます。岩はかろうじて留め直されましたが、その位置は以前より低くなりました。
神が強ければ月は浮き、神が弱れば月は落ちる。バール・ダウはヴィヴェクの神性の状態をそのまま映す、空に浮かぶ計器でした。ついでに言えばこの間、ヴィヴェクは自分の右腕がデイドラの猟犬とすり替わっていたことに最後まで気づいていません。
さて、ここからが本題です。
これほど危うい岩を、ヴィヴェクはなぜ取り除かなかったのか?
本人の言葉が残っています。戦いから戻ったネレヴァルが岩を見上げ、取り除くべきではないのかと尋ねた——という場面が、彼自身の聖典にあるのです。
“望めば、とうに取り除いていたとも、愚かなホーテイターよ。私は、あの岩を、その最後の意図をそのままに留めておく。もしこの都の民の、私への愛がいつか消え失せたなら、その時は、彼らの破滅を押しとどめている力もまた、消えるのだ”
ヴィヴェク著『三十六の教訓』第三十三説話 より
(I would have done so myself if I wanted, silly Hortator. I shall keep it there with its last intention intact, so that if the love of the people of this city for me ever disappear, so shall the power that holds back their destruction.)
ただし、この問答には少し時系列の問題があります。
ネレヴァルは死んだはずなのです。
バール・ダウが落ちてきたのは彼が世を去り、ヴィヴェクが神となり、その名を冠した都が築かれた後のこと。月を見上げて問うネレヴァルはどこにもいません。
この本、『三十六の教訓』は年代記ではなく、死者が語り、時の前後が溶け合う、神話のことばで書かれた寓話の書です。ここでのネレヴァルは史実の人ではなく、ヴィヴェクが自分の物語のために配した登場人物にすぎません。つまりこの聖典は歴史ではなく、ヴィヴェクが「自分をどう語りたいか」を綴った壮大な自画像なのです。
だとすれば、民の愛を人質に取るこの仕掛けは誰かに暴かれた秘密ではなく、本人が自分の手で聖典に書き込んだ一筆だということになります。実際、想像上のネレヴァルに「愛は、お前の意のままにあるのだな」と図星を指されても、彼は否定しません。むしろ満足げですらある。
ヴィヴェクという神は、いつもこうです。表向きは慈悲深く振る舞いながら、自らの聖典には、支配の意図も、ときに殺害の告白までも、こっそりと、けれど確かに書き残さずにはいられない。隠すことと、明かすこと。その両方を、同時にやりたいのです。
バール・ダウは、ヴィヴェクが落とさなかったのではない。落とさずに掲げ続けることで、民の信仰を、日々試し、繋ぎとめるための、いわば脅しの道具だったのです。
そして、岩にはこんな名前も与えられました。
真理省——
彼は、落ちてくる嘘の岩(ライ・ロック)の中を刳り抜き、そこを牢獄に変えました。神殿の教えに異を唱える者──異論派の司祭たちを捕らえ、「改心」させるための施設です。
考えてみれば、これほど倒錯した名はありません。神に逆らう者を黙らせ、作り変えるための牢を、よりにもよって「真理」と呼ぶ。そこで矯正されるのは真実などではなく、ただ神殿にとって都合のよい信仰です。
それを「真理」と名づける。詩人であるヴィヴェクが、この名の皮肉に気づいていないはずがありません。気づいたうえで、なお、そう名づけたのです。
なぜ隠しおおせるはずのことをわざわざ書き、こんな名をつけるのか。もっとも近くにいた者の評が残っています。
“ヴィヴェクは、事実と虚構を分かつ境界を知っている。知り尽くすあまり、その破り方まで学んでしまった。彼は自らの詩のなかに生きながら、その嘘を見分けている。矛盾を、見分けている。彼は自分の物語を、信じてもいるし、信じてもいないのだ”
ソーサ・シル(『The Elder Scrolls Online』)より
(Vivec knows the boundaries that separate fact from fiction. He knows them so well that he’s learned how to break them. He exists inside his verse, but recognizes the lies. The contradictions. He both does, and does not believe his own tales.)
信じてもいるし、信じてもいない。この評を手に第三十三説話へ戻ると、複数の読みが同時に成り立ちます。
- 民の愛を試しつづける装置の、自慢。
- 生ける神の加護は信仰が対価なのだという、約款の正直な開示。
- そして第四章の隠し文に「ヴィヴェクがこれを書いた」と署名したのと同じ、隠しながら明かさずにいられない詩人の癖。
ヴィヴェクに限っては、おそらくどれも正解です。半身は金、半身は灰。一つの身に対極を宿すこの神にとって、脅しと誠実と告白が同じ一文に同居することは矛盾ではないからです。
奇跡は本物でした。月は現に止まり、民は現に守られ、その愛も強いられただけのものではなかったはずです。けれど同じ手が、愛を人質に取る仕掛けを組み、異を唱える声を岩の中へ封じました。
どちらも本当——それが、民に最も愛された神の、栄光の正体なのです。
膝を屈せしめたのか、取引したのか ──シェオゴラス
バール・ダウをめぐっては、物語パートでもう一つの御業を讃えました。岩を投げ落とした狂気の公シェオゴラスを交渉の卓に着かせ、約定を取りつけた一件です。
しかし、そもそも、なぜシェオゴラスは岩を落としたのか?
トリビュナルが神として立つと、神殿は古い神々の地位を組み替えました。善きデイドラだったアズラ、ボエシア、メファーラは「先触れ」へ。残るモラグ・バル、マラキャス、メエルーンズ・デイゴン、シェオゴラスの四柱は「厄災の家」として、敵神・異端の側に置かれました。
扱いは苛烈で、シェオゴラスへの崇拝は死罪と定められています。かつてチャイマーの移住に付き従ったとも伝えられる古い神が、名を呼ぶ者の命を奪う存在に変わったわけです。
シェオゴラスはこれに反逆しました。「ヴィヴェクの都など、天界を嘲笑う冒涜にすぎぬ」と吐き捨て、バール・ダウ(あるいは、その内に宿る何か)をそそのかして都へ差し向けたと伝えられます。つまりあの災いは降ってわいた厄災ではなく、神殿の側が古き神を貶め、その信仰を死罪にまでしたことへの報復として始まっています。
次に、結ばれた約定の中身です。
神殿の巡礼者が「厄災の家」への祈りとなだめを絶やさないかぎり、シェオゴラスはヴァーデンフェルのダンマーを狂気の災いから守る——
これが条件でした。物語パートで書いた讃辞は「膝を屈せしめた」と語りますが、条文を読むかぎり、これは屈服ではなく取引です。それも「民に永遠に祈らせ続ける」という代償をこちらから差し出した、譲歩込みの取引でした。力でねじ伏せたのではなく、対価で矛を収めてもらった。武勇ではなく外交です。
もっともヴィヴェクという神は、もともとこういった手を好みました。別の伝えでは、デイドラ公をあしらうのに力較べではなく言葉巧みな挑発と機知を用いたとされます。
そしてこの取引は、絵空事では終わっていません。はるか後の世になっても、神殿で高みに昇る者は「四隅の巡礼(Pilgrimages of the Four Corners)」を課されます。
マラキャス、メエルーンズ・デイゴン、モラグ・バル、シェオゴラス──敵神と教えられたその四柱の像を、順に訪ね歩き、ヴィヴェクの遺した詩「厄災の家の四隅」を唱えて、一柱ずつ「盟約を更新する」のです。祈りを果たした巡礼者には敵神の像から「祝福」が授けられます。ちなみにシェオゴラスへの捧げ物は、奉納先の聖堂のどこかに隠された魔法の手袋と定められています。探すところから、巡礼です(詳しくは、さらなる解説で)。
ここまでが、起きたことです。そのうえで約定を読み直してみます。
発端は、三柱が古き神々を敵に指定し、その信仰を死罪にした傲慢にありました。災いの半分は自分たちで招いたものです。そして始末のつけ方は、その代償を民に回す形でした。一方では「崇めてはならぬ」と教え、他方では「災いを避けるため、絶やさず祈れ」と命じる。ダンマーが狂気から守られる対価は、この矛盾した宗教的義務を何千年も背負い続けることだったのです。
英雄譚の請求書は、何千年のちの信徒に回されました。四隅の巡礼は、いまもその分割払いの続きです。
知りながら、続ける。それが、この神の流儀でした。
欠陥が、見えてしまう神 ──ソーサ・シル
神秘の神、時の建築家、オブリビオンを縛る者。ネレヴァルとヴィヴェクの師であり、三柱きっての叡智の神です。職人と魔術師の守護者にして、その知の底はほかの二柱をもってしても測りがたい。民はめったにその姿を見ないけれど、地の底のどこかで最も賢き神が世界をより善きものへ造り変えようとしていることを、畏れと誇りとともに信じていました。
先に一つだけ、奇妙なことを言っておきます。この神は三柱のなかでただ一人、神であることに執着していませんでした。なぜそんな神が、これから見る二つの途方もない御業に手を染めたのか——その答えは、彼の行いをすべて見届けた最後にこそ分かります。
八柱を従えた盟約 ──コールドハーバーの取り決め
物語パートで讃えた、あの盟約です。背景まで含めて順に辿ります。
事の発端は、ヴァレンウッドにあったギル=ヴァー=デイルという集落で起きた凄惨な事件でした。センチャルの王ドロ=ゼルによって支配の公モラグ・バルが召喚され、公はその日その場にいたすべての定命の者の魂を喰らい、町の壮麗な巨木の焦げた残骸だけを残した。一夜にして村人の魂がまるごと貪り喰われた、「ギル=ヴァー=デイルの喰らい」と呼ばれる惨劇でした。
この破壊のあと、ソーサ・シルとアルマレクシアは、同じようなデイドラの災いからタムリエルをどう守るかを練りはじめます。ここは見落とせない点です。後にソーサ・シル単独の御業として讃えられるこの盟約は、その発端においてアルマレクシアとの共同の企てでした。実際、複数の伝えがソーサ・シルはアルマレクシアに促されてオブリビオンへ赴いたと記しています。
当時のソーサ・シルは魔術師の聖地アルテウム島に身を置き、古き秘儀を伝える魔術師の結社サイジック会の一員として、新しい魔術師たちに魔術を教えていました。彼がオブリビオンへ分け入った経路も、その島にある「夢見の洞窟」です。
そして会談の場所が極めて特殊でした。あろうことか、モラグ・バルの本拠地コールドハーバー。あの惨劇を起こした張本人の領界であり、オブリビオンでも最も忌まわしい場所のひとつです。ソーサ・シルはそこへ、たった一人で乗り込んでいった。
日付も伝わっていて、第一紀2920年、雨手の月の3日から5日。3日間の会談でした。
彼が一堂に集わせたのは最も強大な八柱のデイドラ公——モラグ・バル、ボエシア、アズラ、ハーシーン、ハルメアス・モラ、マラキャス、シェオゴラス、メエルーンズ・デイゴン。善きデイドラも厄災の家とされた面々も、まとめて交渉の座に着かせたのです。定命より神となった身とはいえ、始原よりの神々に等しい八柱を従えたこと自体が、彼の異常な力量を物語っています。
では、その盟約で何が取り決められたのか?
意外なことに、正確な条項は今もほとんど分かっていません。記録が散逸したのではなく、もともと秘密の取引だったからです。脅しを使ったのか、見返りを差し出したのか——それすら伝わっていません。
分かっている範囲では、デイドラ公たちは素人の召喚には応じないと同意し、デイドラと交渉できるのはサイジック会とごく一部の遊牧の魔術師や魔女のみとされた。一説にはモロウウィンドとレマン帝国の戦争が終わるまでの取り決めだったとも、また別の解釈では、公たちの直接の顕現は禁じたが、魔女や信者といった仲介者を通じて意志を行使する道までは塞がなかったとも言われます。
いずれにせよ、剣の一閃ではなく言葉と知恵だけで八柱の神を従わせた、屈指の外交的偉業です。けれど記録を読み進めると、見落とせない綻びが二つあります。
ひとつ。盟約は、その場にいた八柱しか縛りませんでした。バール・ダウの段で見たクラヴィカス・ヴァイルの暗躍はその実例です。盟約に加わらなかった八柱のうち、後の第二紀に結託して動いたのがヴァイル、メファーラ、ノクターナルの三公でした。彼らは何の妨げもなく、ニルンを自分たちの姿に造り変えようと試みます。
ふたつ。盟約は、結ばれてわずか数ヶ月で破られました。ほかでもない、その座にいたメエルーンズ・デイゴン自身の手で。同じ第一紀2920年の黄昏の月、デイゴンは舌の根も乾かぬうちにモーンホールドを焼いたのです。デイゴンにとってソーサ・シルなど、ただの定命の機械工にすぎませんでした。
ただし、破った者に罰がなかったわけではありません。モーンホールドでアルマレクシアとソーサ・シルに敗れたデイゴンは追放され、ソーサ・シルはその領界デッドランズへ通じる次元の扉そのものを固く封じてしまいます。「オブリビオンを縛る者」という異名はここから来ています。
そこまでは、見事と言っていいでしょう。
問題は、これほど綻びのある盟約を、なぜそれでも誇ったのか?
この一件を、ほかならぬソーサ・シル自身は後にこう振り返ったと伝えられます。
“言葉と儀によってオブリビオンの公たちが盟約に縛られたとき、我らを盗人と呼ぶ者は、わずかであった。メエルーンズ・デイゴンがその盟約を破り、モーンホールドの地で自ら砕かれたとき、そう呼ぶ者は、さらに少なかった”
ソーサ・シル(『The Elder Scrolls Online』)より
(Few called us thieves when by words and by rite the Princes of Oblivion were bound to a truce. Fewer still when Mehrunes Dagon broke that truce and himself was broken on the soil of Mournhold.)
「我らを盗人と呼ぶ者は、わずかであった」
盟約はただ民を守るためのものではなかった。自分たちを「盗人」と呼ぶ声——アッシュランダーをはじめ、三柱を簒奪者と見る声——を黙らせるための御業でもあったのです。
見よ、我らは八柱すら従え、破約の魔神すら討った。これほど役に立つ我らを、それでも盗人と呼べるのか——
本物の神は自分が神であることを証明する必要がありません。奪った者だけが、たえず実績を積み、汚名を雪ぎつづけなければならない。コールドハーバーの盟約とは民を守る慈悲であると同時に、奪った神性を正当化しつづけるための壮大なアリバイでもあった——そう読むこともできるのです。
世界を造り直すという僭越 ──クロックワーク・シティ
盟約が外に向けた正当化だったとすれば、もう一つの御業は彼の内側を映しています。
地の底に築かれた完璧な世界、クロックワーク・シティ。物語パートでは「この不完全な世界を造り直すため」に築いたと書きました。その一言の中身を、もう少し正確に見ます。
ソーサ・シルは、エイドラがこのニルンを創った仕事そのものを欠陥品と見なしていました。神々が己の身を世界の骨組みに変えてまで成した、あの創造を。それを彼は自らの設計図で完全なものに造り直そうとした。しかも構想は「造り直し」では済みませんでした。
彼に仕える神官にして技師の教団、クロックワーク使徒の伝えるところによれば、彼が目指したのは第二のニルン、やがてはタムリエル・ファイナルと呼ばれる究極の世界の創造でした。そこは個々の神々から解放された世界。そして驚くべきことに、デイドラという存在そのものを消し去った世界です。彼にとってデイドラとは「無」であり、創造が自らに語る嘘にすぎない。その嘘を焼き払い、世界を万物の始原たる「静」——アヌの統一へと収束させる。それが地の底の賢者の最終目的でした。
神々の創造を採点し、書き直し、気に入らない存在のカテゴリごと消去する。これは世界を整える業ではなく、神々に成り代わる業です。三柱の御業のなかでも、いちばん大きな僭越でした。
そしてこの完璧な世界には、ぞっとする一点があります。
ソーサ・シルは自らの理想の世界に、わざと“苦しみ”を作り込みました。都のなかには恵まれぬ者がいて、飢える者がいる。設計の失敗ではなく、意図された仕様です。
世界の仕組みを完全に複製するには、その苦しみまで再現しなければならない——
そう考えたからこそ、彼は自分の楽園に飢えと苦痛を部品として組み込んだのです。しかも住民は外へ出ることを許されません。完璧であるはずの都は、同時に出口のない監獄でもありました。
では、これをなした神は、何者だったのか?
八柱を従え、世界そのものを造り直そうとする。これだけ見れば、力に憑かれた冷たい簒奪者の所業に見えるかもしれません。けれど冒頭で言った奇妙なことを思い出してください。
これらをなした神は、神であることにまるで執着していなかったのです。
彼は自らの神性について、こう語ったと伝えられます。
“私は、人々が必要とするものに何にでもなる。守護者にも、抑圧者にも。ある者には遠すぎ、ある者には干渉が過ぎる。私は、人々が夢と恨みを描きつける画布。希望と疑いを注がれる器。鏡だ。それ以上のものではない”
ソーサ・シル(『The Elder Scrolls Online』)より
(I am whatever the people need me to be. A guardian. An oppressor. For some, too distant. For others, too meddlesome. I am the canvas upon which they paint their dreams and resentments. A vessel for their hopes and doubts. A mirror. Nothing more.)
神でありながら、自分を空っぽの鏡だと言う。
彼自身、二人の同輩をこう評しています。
ヴィヴェクとアルマレクシアは自らの神性を不可欠なものと見なしている。神であることが彼らに喜びと目的をもたらすのだ——
そして、そこに自分を含めない。
ならば、神性が目的でないなら何がこの神を駆り立てたのか。答えは彼自身の、最も静かな述懐のなかにあります。
“私が試みたすべてに、欠陥が見えた。その欠陥を取り除こうとする営みのなかにすら、欠陥が。それでも、私はいじるのをやめられなかった。創るのをやめられなかった”
ソーサ・シル(『The Elder Scrolls Online』)より
(I saw the imperfections in everything I ever attempted. Even imperfections in my pursuit to rid myself of them. Yet I could never stop tinkering. I could never stop creating.)
欠陥が、見えてしまう
ここに、すべてがあります。
あらゆるものに欠けたところ、歪んだところが見えてしまい、直さずにはいられない。世界を歯車仕掛けの機械と見るこの神の目に、神々が組んだこの世界は欠陥だらけの粗雑な代物に映った。ならば組み直せばいい。完璧な版を、自分の手で。
これは傲慢から出た野心というより、ほとんど病のような強迫です。神になる前から彼はおそらくそういう男でした。神の力はその強迫を、一個の機械を直す規模から世界そのものを造り直す規模へと膨れ上がらせただけなのです。
その目で振り返れば、コールドハーバーの盟約も、同じ強迫の現れだったのかもしれません。神性を奪ったという「欠陥」、盗人と呼ばれるという「狂い」。それを正さずにいられず、八柱のデイドラ公を従えてまで、自分たちの正しさを世界に証明してみせた。外なる世界の欠陥も、自分たちにまつわる欠陥も、彼はただ、放っておけなかったのです。
これが、ソーサ・シルの狂気です。そして彼は、その営み自体がまた不完全であることに気づいていました。「欠陥を取り除こうとする営みのなかにすら、欠陥が見えた」——分かっていながら、やめられない。自分が本性に縛られていることを誰よりも醒めた目で見抜きながら、抗えない。
三柱でいちばん賢く、いちばん醒めていて、だからこそ、いちばん救いのない神でした。
慈悲という、いちばん深い仮面 ──アルマレクシア
癒しの母。慈悲の貴婦人。母なるモロウウィンド。聖なる淑女。
彼女を讃える名は、いずれも温かな光に満ちています。自ら民のあいだへ降り、貧者の戸を叩き、病める者の枕辺に座り、子らのためにやさしい寓話を書いた。三柱のうち最も民に近く、最も親しまれた神。物語パートで讃えたとおりです。
その武勇もまた、名高いものでした。破壊のデイドラ公メエルーンズ・デイゴンが愛と慈善の都モーンホールドを襲ったとき、慈悲の母は剣ホープスファイアを魔神の身に深々と突き立て、内側から斬り裂いた。傍らではソーサ・シルが神の青銅の鞭を振るい、ついに公をオブリビオンの彼方へと打ち返す。民を癒すときはどこまでも優しく、民を守るときはどこまでも雄々しい。慈悲と武勇を兼ね備えた女神──これ以上ない、母なる神の姿です。
ここまでと同じように、彼女のこの華々しい御業の衣を脱がせていきたいところですが、アルマレクシアという神に限っては、それがうまくいきません。彼女は、一つの御業に本性を刻むような神ではないからです。月を止めたヴィヴェクや、世界を造り直したソーサ・シルのようにはいかない。彼女の底知れなさは、もっと別のところに、もっと厄介な形で潜んでいます。
ソーサ・シルは、アルマレクシアについても証言を残しています。盟約を共に企て、デイゴンを討った戦場では彼女の隣に立っていた——彼女を誰よりも長く、近くで見てきた一人です。その彼が、アルマレクシアを問われてこう語ったと伝えられます。
“彼女は、自らの物語を、心の底から信じている。まわりの誰もが信じているのと同じように。その欺きの才には、際限というものがないらしい。彼女は、名うての庭師が種を蒔くように、嘘を蒔く。そうして刈り取られる信頼と称賛は、息を呑むほどの広がりだ“
ソーサ・シル(『The Elder Scrolls Online』)より
(She believes her tales implicitly. As does everyone else. Her capacity for deception appears limitless. She sows lies like a master gardener sows seeds, and the harvest of trust and adulation is breathtaking in scope.)
この評の鋭さは、ヴィヴェクとの対比にあります。
ソーサ・シルに言わせれば、ヴィヴェクは事実と虚構を見分けている。嘘を嘘と認識し、自分の物語を半ば信じ、半ば信じずに生きている。あの真理省を、皮肉と知りながら「真理」と名づけた確信犯であり、自らの嘘の輪郭をはっきり見ている。
だが、アルマレクシアは違う。彼女は自らの物語を文字どおり信じきっていて、その欺きの才には際限がない。だとすれば──これは彼の評から読み取れることですが──慈悲が「演技」なのか「本物」なのか、その問い自体が彼女には当てはまらないことになります。
演技には、演じているという自覚があります。けれど彼女には、その自覚すらない。ヴィヴェクの嘘が確信犯であるのに対し、アルマレクシアは自分が嘘をついていることに気づいてさえいない──ソーサ・シルの評を信じるなら、そういうことになります。(※以下は私の推測です)自分の慈悲を心の底から信じているからこそ、その同じ自己像のもとで平然と苛烈にもなれるのではないか。嘘だと気づいている者の嘘には底がありますが、本物だと信じ込んでいる者の嘘には底がない。そう考えると、ソーサ・シルがなぜ彼女の欺きを「際限がない」としたのか、その不気味さが腑に落ちます。
そして、その自己欺瞞をうかがわせる徴が、思わぬところにも残されています。
肌の色です。
アズラの呪いでチャイマーの黄金の肌が灰へと褪せたとき、ソーサ・シルは灰の肌を受け入れ、ヴィヴェクは金と灰を半々に分けました。けれどアルマレクシアだけは、全力でそれに抗い、ついに金の肌を手放さなかったといいます。
灰の肌とは、三柱が犯した罪の徴です。それを拒み、チャイマーとしての古い自己にしがみつき、かつての黄金の姿に固執しつづけることは、自らに下された当然の報いを避けようとすることに見えます。自分が何をしたのか、何を失ったのかを見ようとしない。罪の徴さえ受け入れない。そう読むなら、金の肌は現実から目を背けつづける彼女の、目に見える徴だったのかもしれません。見ないことによって、慈悲の母という自己像を守りつづける──そのための徴だった、と思えるのです。
ソーサ・シルは彼女を「物語の紡ぎ手」と呼びました。けれど彼女は、ヴィヴェクのような聖典を書き残してはいません。では、彼女の物語はどこにあるのか? 金の肌を手放さず、灰の罪を見まいとしつづけたその姿が答えなのかもしれません。
彼女の最高傑作は、書物ではなく——「アルマレクシア」という、彼女自身なのです。
私たちは最初、彼女の慈悲は本物か、見せかけかと問おうとしました。けれど本当に問うべきは、その手前にあったのかもしれません。
アルマレクシアは、慈悲深く愛情深い神だと、自分自身を信仰しているのではないか?
民を欺くより前に、彼女はまず自分自身を欺いている。自分は慈悲の母であるという物語を、誰よりも熱心に信じる信徒が、ほかならぬ彼女自身なのではないか。ソーサ・シルの「自らの物語を信じきっている」という評も、罪の徴である灰の肌すら拒んだその行いも、そろって同じ一点を指しているように見えます。
そして自分自身を信仰しつづけた神が、その信仰を揺るがされたとき、何が起こるのか? それを、ソーサ・シルはずっと前から見抜いていたのかもしれません。
“アルマレクシアがそうするのは、そうするより他にできないからだ。よい終わり方はしないだろう。とはいえ、最良の結末でさえ、喜びをもたらすことは稀なのだが“
ソーサ・シル(『The Elder Scrolls Online』)より
(Almalexia does what she does because she cannot do otherwise. It will not end well. But then, even the best endings rarely bring joy.)
神々の上に、神はないと謳って ──「先触れ」という名の格下げ
ここまで、三柱を一人ずつ腑分けしてきました。
ヴィヴェクは、落ちてくる月を民の頭上に掲げつづけ、信仰を人質に取りました。自分の嘘を知り抜いたうえで、それを聖典に誇らしく書き残す確信犯。
ソーサ・シルは、八柱のデイドラ公を従えて簒奪の汚名を雪ぎ、地の底では神々の創造そのものを書き直そうとしました。神性に醒めきったまま、欠陥を直さずにいられない本性に縛られた賢者。
そしてアルマレクシアは、慈悲の母という自分自身の偶像を、誰よりも深く信仰していました。嘘という自覚すらないままに。
三人とも、確かに途方もないことを成しています。月を止め、魔神を討ち、世界を造った。けれど、解説の冒頭で立てた問いに、もう一度戻りましょう。彼らは、何を司ったのでしょうか?
夜明けでも、運命でも、死でもありません。彼らが守り、繋ぎとめ、造り直そうとしたものは、突き詰めればただ一つ──自分たちの神性そのものでした。ヴィヴェクは信仰を縛ることで、ソーサ・シルは実績と完璧さで、アルマレクシアは自己への信仰で。三者三様のやり方で、同じ一つのもの、すなわち奪った神性を守りつづけていたのです。
そして、その正体が最もあからさまに露呈した一点があります。物語の終わりで触れた、あの教義です。
栄華を極めた神殿は、やがてこう説くようになりました。
古き善きデイドラ──アズラ、ボエシア、メファーラさえもが、三柱の正統を認めたのだ
いや、それどころではありません。かの古き三柱に、神殿はひとつの呼び名を与えました。
先触れ(Anticipations)。
その意味を、神殿の教義書は自らこう定めています。
“善きデイドラが「先触れ」と呼ばれるのは、彼らが、トリビュナルの慈愛深き庇護を、古き祖先として先んじて告げ知らせた存在にすぎないからである“
神殿教義『守護者たち(The Anticipations)』より
(The Good Daedra are known as the Anticipations, because they are the early ancestral anticipations of the loving patronage of the Tribunal.)
先触れとは、本物の到来をあらかじめ告げ知らせる、前触れのことです。つまり神殿はこう宣言したのです。
アズラも、ボエシアも、メファーラも、来たるべき我ら三柱を予告するための、未完成な影にすぎぬ——
対応は一柱ずつ定められました。ボエシアはアルマレクシアの、メファーラはヴィヴェクの、そしてアズラは、ソーサ・シルの先触れとされたのです。
ところで、この配役をよく見てください。貶めるために選ばれたはずの対応が、おかしな具合に、三柱の履歴書になっています。
ボエシアが何者だったか、第一章を思い出してください。トリニマックを「喰らい」、その姿を着て、信徒ごと作り変えた公子——神を呑み込み、神の形を奪って身にまとう、という簒奪の原型を、神話の時代にやってのけた張本人です。神殿はその公子を、よりにもよって奪った神性を誰より深く着込んだアルマレクシアの先触れに据えました。
メファーラは、嘘の網を織る者。あてがわれたのは、自らの聖典に嘘と告白を織り込みつづける詩人、ヴィヴェクです。
そしてアズラ——夜明けと黄昏、状態と状態のあいだの「移行」を司る女神は、定命から神への移行という、まさに彼女の領分を踏み荒らして成り上がった三柱の、その筆頭の賢者、ソーサ・シルにあてがわれた。
貶めの人選のつもりが、一柱ずつ、見事に正体を言い当てている。教義というものは、書いた者が思う以上に、書いた者を語るのです。
では、なぜこんな教義がそもそも必要だったのか?
答えは単純で、アズラを消せなかったからです。
彼女はチャイマーをこの地へ導いた民族の母であり、その記憶は民の骨身に染みている。禁じれば反発を生み、放っておけば信仰が残る。消せないものの扱い方は、一つしかありません——
“自分の体系に組み込む”
敵に回った四柱は「厄災の家」という檻へ。残る三柱は「先触れ」という檻へ。敵としてか、前座としてか、入れられた檻が違うだけで、どちらも旧き神々を、三柱を頂点とする神学の部品に作り変える仕掛けです。新しい神が古い神を消さずに「予告編」へ格下げするこのやり口は、現実の宗教史でも繰り返されてきた由緒正しい手口でもあります。
そしてこの教義のいちばん恐ろしいところは、嘘が制度になると、嘘つきが要らなくなる点です。
最初の世代の神官は、あるいは嘘と知って教えたかもしれません。けれどそれを聞いて育った弟子は、信じたまま司祭になり、信じたまま次の世代に教える。仮面は、被りつづければ顔になります。自分を欺く者こそ、もっとも深く他人を欺く——現実の心理学にも、そういう知見があります。
見破られない嘘つきとは、自分の嘘を信じている嘘つきのことだからです。そして教義とは、自分の嘘を信じる者を、組織ぐるみで量産する装置にほかなりません。三千五百年ののち、この教義を嘘と知る者は世界に三人だけ。いや、正確に数えましょう。
ヴィヴェクは、嘘と知りながら味わっている。
アルマレクシアは、おそらく信じ込んでいる。
ソーサ・シルは、興味がない。
嘘を嘘として抱えている者は、もしかすると、たった一人なのです。
物語パートの最後に「その呼び名のうちに、どれほどの傲りが潜んでいたか。それに気づく者は、もう、どこにもいなかった」と書いたのは、そういう意味でした。傲りに気づく者がいないのは、民が愚かだからではありません。嘘が、嘘つきより長生きしただけ、というだけのこと。
奪った者には、正史を書く資格が永久に回復しない
資格が戻らないから、彼らは書き換えつづけるしかありませんでした。歴史を書き換え、盟約で評判を書き換え、ついには神学そのものを書き換えて、本物の神々を自分たちの前座に配役し直した。
けれど、書き換えるたびに、指紋が残ります。先触れの配役はその指紋のいちばん鮮明な部分です。
さらなる解説
ここからは、物語の中に出てきた各要素についてより深く解説していきます。
ただし、あまりにも長くなってしまうため、興味があるときに読んでいただければと思います。
「真理省」という名 ──もう一つの『1984』
ヴィヴェクが異論派を幽閉した牢を「真理省(Ministry of Truth)」と呼んだことに、どこかで聞き覚えのある響きを感じた方も、いるかもしれません。
ジョージ・オーウェルの小説『1984年』。全体主義国家を描いたこの不朽の名作には、四つの省が登場します。戦争を司る「平和省」、欠乏を司る「豊富省」、そして——嘘とプロパガンダを司る「真理省(Ministry of Truth)」と、拷問と思想矯正を司る「愛情省(Ministry of Love)」。いずれも、その名と実態が、正反対に倒錯している。この小説での真理省は、歴史を改竄し、嘘を製造する省なのです。
ヴィヴェクの「真理省」が、この『1984年』の真理省を念頭に置いた名であることは、まず間違いないでしょう。ただし、ベセスダがそれを公式に認めた記録はなく、あくまでファンや解説者のあいだで「常識的に見て、そうだろう」と語られている、という点は、断っておきます。
そして、ここに、ひとつ面白い捻れがあります。
ジョージ・オーウェルの描く真理省は、嘘を撒く宣伝機関でした。一方、異論者を捕らえて拷問し、「改心」させる思想矯正の牢は、別の省——愛情省の役割です。ところがヴィヴェクの真理省は、その名を冠しながら、その実、やっていることは「愛情省」のそれ。 異を唱える者を閉じ込め、信仰を作り変える施設なのです。つまりヴィヴェクの真理省は、オーウェルの二つの倒錯した省を、ひとつに溶かし込んだような存在だといえます。
名は「真理」、内実は思想矯正の牢。愛を説く神が、異論を「真理」の名の牢に封じる。この二重の倒錯は、ヴィヴェクという神の本質——美しい言葉で、支配の現実を覆い隠す詩人——を、これ以上なく的確に映し出しています。
偶然の名づけにせよ、意図した引用にせよ、ヴィヴェクほど「真理省」の名がふさわしい神はいないでしょう。
厄災の家(House of Troubles)とは ──敵神にして、聖なる試練
解説で触れた「厄災の家」について、神殿自身が著した同名の書が残っています。それを読むと、この「敵神」の扱いが、ただの排除ではないことが分かります。
四柱とは、マラキャス(第一の隅)、メエルーンズ・デイゴン(第二の隅)、モラグ・バル(第三の隅)、シェオゴラス(第四の隅)。
彼らはもともと聖ヴェロスとチャイマーに付き従って約束の地モロウウィンドへ渡った、古き祖霊たちでした。つまり出自だけ見れば善きデイドラと同じ側にいたのです。それがトリビュナルの訓戒に背いて反逆し、氏族と名家のあいだに争いと混乱をもたらした——だから敵神である、というのが神殿の言い分です。
ところが同じ書が、奇妙なことも言います。
マラキャス、メエルーンズ・デイゴン、モラグ・バル、シェオゴラスは、試練における障害の役を務めるという意味において、聖なる存在である
神殿書『厄災の家(The House of Troubles)』より
(Malacath, Mehrunes Dagon, Molag Bal, and Sheogorath are holy in that they serve the role of obstacles during the Testing.)
敵でありながら、聖。神殿は四柱それぞれに「試し」の役を割り振っています。
マラキャスはトリニマックの蘇った糞であり、弱いが執念深い神で、ダンマーの肉体の弱さを試す。
シェオゴラスは狂気の王として精神の弱さを試す——もっとも伝承の半分では、彼は自分を呼んだ者を裏切らないため、神殿書自身が「彼は我らを助けてくれるのか? 障害ではないのか?」と混乱を認めるありさまです。
デイゴンは火事、地震、洪水。モロウウィンドの過酷な大地そのものの象徴であり、生き抜く意志を試す。
そしてモラグ・バルは名家の血統を汚そうとする者で、古きレスダインでは崇拝の対象というより、なだめの対象だったと書は付け加えます。モラグ・アマーに棲むという怪物の一族は、先の時代に彼がヴィヴェクを誘惑して生まれた、とされます——バール・ダウの出どころ異説のひとつが、ここに繋がっているわけです。
それでいて、四柱の崇拝は神殿法と帝国法の双方で死罪。オーディネーターと帝国守備隊が共同で、その教団を荒野や遺跡の奥まで狩り立てました。
では解説で見た「四隅の巡礼」は、実際にはどう行われたのか? 後の世の記録によれば、神殿で高みに昇る者は、大導師みずからの指示で四つの聖地を順に巡ります。マラキャスの像にはデイドラの心臓を四つ供え、バル・ウルの地下に座すモラグ・バルの像を訪ね、デイゴンの聖堂に詣で、最後はシェオゴラスの古き聖堂アルド・ダエドロスへ。そして各々の像の前で、ヴィヴェクの遺した詩「厄災の家の四隅」を唱えると、巡礼者は敵神の像から「第◯の隅の祝福」を授かる。敵と教えられた神から、祝福を受け取って帰るのです。(※以下は私の推測です)
この体系は、トリビュナルの分類装置だったと読めます。
善きデイドラ——アズラ、ボエシア、メファーラ——は「先触れ」とされた。三神がかつて聖ヴェロスを導き、チャイマーをモロウウィンドへ送り出した正統の神であったことは消せない。だからトリビュナルは彼らを否定せず、「我ら三神が現れる前触れにすぎなかった」と時間軸の下流に置き直した。先に在った者を、後から来た者の影として扱う。これが上書きの作法です。
一方、悪しきデイドラ——マラキャス、メエルーンズ・デイゴン、モラグ・バル、シェオゴラス——は「試練の家(House of Troubles)」とされた。
敵でありながら聖なる存在。この矛盾こそ装置の要です。敵対をやめさせるのではなく、敵対そのものに「試練」という役割を割り当てる。マラキャスは肉体の弱さを、シェオゴラスは精神の弱さを、モラグ・バルは血統の純度を、デイゴンは生き延びる意志を試す——攻撃のひとつひとつが、信仰を鍛える工程に変換されていく。
つまりトリビュナルは、御しがたい旧神を消そうとはしなかった。消せないものを、自分たちを頂点とする神学の部品に作り変えた。崇敬の対象は予兆として下流に、敵対の対象は試練として体系の内側に。どちらも、トリビュナルという中心がなければ意味をなさない位置に縛りつけられている。敬うことも、忘れ去ることも許さない。
解説で見たあの矛盾した宗教的義務——敵神に祈りを捧げよ、ただし崇拝はするな——は、この装置の上にこそ載っているのです。
なお、第二の隅デイゴンの巡礼地がどこに置かれたかは、次の項で。少し、ぞっとする話になります。
ギル=ヴァー=デイルの喰らい ──ハートの日の悲恋歌と、伝説への疑い
ギル=ヴァー=デイルは、ヴァレンウッド西部グラートウッドの森にあったウッドエルフの町です。大いなる樹(グレート=オーク)を囲んで栄えた、音楽と生命に満ちた共同体だったと伝えられます。
第一紀2920年、恋人たちの祝日、ハートの日のこと。はるか南、エルスウェアのセンチャル宮殿では、王ドロ=ゼルが恒例の祝宴を開いていました。このカジートの王は「センチャルの狂王」と呼ばれ、子供のような心性の持ち主だったといいます。宴の席に、ギル=ヴァー=デイルから来た一人の吟遊詩人が招かれ、土地に伝わる悲恋の物語——ポリドールとエロイサの伝説を歌いました。よりにもよって、救いのない結末の歌を、恋人たちの祝日に。
王は打ちのめされました。悲しい話を聞かされたことに傷つき、泣きながら自室へ引きこもり——そして、怒りにまかせて闇の儀式を行い、支配の公モラグ・バルを召喚して、こう命じたのです。あの詩人の故郷を、滅ぼせ、と。
公は赤い霧となってギル=ヴァー=デイルに現れ、一夜にして町を呑みました。その場にいたすべての定命の者の魂が貪り喰われ、誇りだった大樹の焦げた残骸だけが残された。
歌が悲しかった——ただそれだけの理由で、一つの町が消えたのです。なお、この狂王が罰を受けた記録はありません。それどころか彼は後に、皇帝レマン三世の顧問にまで取り立てられています。
惨劇の記憶はウッドエルフたちの心に深く刻まれ、モラグ・バルは「都を滅ぼした恐るべき悪魔」として長く恨まれ続けました。そして第二紀になってもなお、その廃墟には公の穢れが残り、第二紀582年には、アルマレクシアみずからの命でモーンホールドの高位オーディネーターが派遣され、廃墟に巣くう邪教を掃討したと伝えられます。三柱は二百年以上たっても、この傷の後始末を続けていたわけです。
ところが、この伝説そのものを疑う声が、ほかならぬ事件を記した書のなかに残っています。『ギル=ヴァー=デイルの喰らい』を著したファスターという作家は、こう問うのです。
“もしバル本人が悪意をもってこの地を訪れたのなら、なぜ我らの誰かが、いまも残っているのか?”
ファスター著『ギル=ヴァー=デイルの喰らい(The Devouring of Gil-Var-Delle)』より
(if Bal himself visited this plane with evil intent, why do any of us remain?)
デイドラ公が本当に顕現したのなら、被害が一つの町で済むはずがない——もっともな疑問です。実際、あれは公の仕業ではなく大火だったのだと信じる者もいたといいます。盟約という大功績の、その発端の惨劇にすら、語りの揺らぎが残っている。第二章からずっと見てきた、この物語の癖がここにも顔を出しています。大きな事件ほどしっかりと語り継がれることが少ない、良い例です。
ソーサ・シルとアルド・ソサ ──故郷を焼かれた神
ソーサ・シルの出身は、ソサ家という小さな名家でした。その本拠アルド・ソサは、彼がまだ幼い頃、メエルーンズ・デイゴンによって滅ぼされています。ソーサ・シルはその唯一の生き残りとされ、伝承では、彼を救い出したのはヴィヴェクだったといいます。
ここで、第一章を読まれた方は引っかかるはずです。ヴィヴェクは三柱で最も若い世代であり、ソーサ・シルはネレヴァルの師ですらあった老練の魔導士のはず。幼いソーサ・シルを若きヴィヴェクが救うのでは、時系列が合いません。第一章の解説で見た「ヴィヴェクの定かでない出自」——神となった力で過去そのものが書き換わったのではないか、という、あの揺らぎが、ここにも波及しているのです。
それでも、この伝承が本当なら、いくつかの符合が急に重みを持ちます。故郷をデイゴンに焼かれた唯一の生き残りが、はるか後、モーンホールドでそのデイゴンを討ち、二度と戻れぬよう領界の扉まで封じてしまう。一説には、あの戦いで彼が振るった鞭には、アルド・ソサの復讐の意味が込められていたともいわれます。
そして、滅ぼされた故郷のその後が、また残酷です。
アルド・ソサの廃墟は、後の世、ヴィヴェクの都の北東に横たわるデイドラ遺跡となります。そこに祀られているのは——よりにもよって、メエルーンズ・デイゴン。ハウス・ソサを焼き払った張本人の聖堂が、その焼け跡の上に建っているのです。しかも前項で見た「四隅の巡礼」で、第二の隅デイゴンの巡礼地に定められたのが、まさにこのアルド・ソサでした。つまり神殿は、信徒たちをソーサ・シルの故郷の墓標へ送り、そこでデイゴンとの盟約を更新する祈りを捧げさせていたことになります。ヴィヴェクの都から見えるほどの距離で、地の底の神は、自分の故郷を焼いた魔神の聖堂が参拝されるのを、何百年も黙認しつづけたのです。彼が何を思っていたのか、記録は何も語りません。(※以下は私の推測です)
燃え落ちて消えた故郷と、地の底に築かれた、決して壊れない機械の都。「欠陥が見えてしまう神」の原点に、世界が呆気なく崩れるさまを見てしまった一人の少年がいた——そう読みたくなる符合です。
タムリエル・ファイナルとクロックワーク使徒
クロックワーク・シティの真鍮の要塞には、クロックワーク使徒と呼ばれる、ソーサ・シルに仕える神官たちが暮らしています。彼らは神官であると同時に技師であり、祈りと工学が一体になった教団です——神を信じなかったドゥーマーの技術体系を、神を信じる教団が受け継いだ、という皮肉な構図がここにあります。使徒たちは信仰の証として、自らの肉体を少しずつ真鍮の義肢へと置き換えていきます。肉を捨てて機械に近づくことが、彼らにとって神への献身なのです。都の雑務は、ファクトタムと呼ばれる機械の従者たちが黙々とこなしています。
その教義をまとめた聖典が『真実の連なり(The Truth in Sequence)』。著者は高位の使徒デルドリス・モルヴェインで、ソーサ・シルは「常に巻かれしゼンマイ(Mainspring Ever-Wound)」という尊称で呼ばれます。説教は「言葉によって、我は歯車を巻く」という定型句で始まり、その教えは、こんな調子です。
“古き機械を打ち壊せ。心の偶像を倒せ。そして残骸から、新しき真実を組み上げよ——欠陥なく、水も漏らさぬものを”
デルドリス・モルヴェイン著 『真実の連なり』第四巻 より
(So, smash the old machines! Topple your mind’s idols! And from the wreckage, assemble new truths—flawless and water-tight.)
興味深いのは、この聖典が「神の沈黙」を教義の中心に据えていることです。ソーサ・シルはめったに姿を見せず、言葉も与えない。けれど使徒たちはそれを見捨てられたとは考えません。神が沈黙するのは、自ら問い、自ら見つける心——好奇心を民に育てさせるためであり、知は与えられるものではなく、隠されているからこそ探し出せるのだ、というのです。分解しなければ、組み直せない。砕くことでしか、完全にはなれない——どこまでもソーサ・シルらしい、工房の論理でできた信仰です。
そこに説かれる終末論によれば、ソーサ・シルが組み上げているのは、来たるべき第二のニルン——そしてその先にある究極の世界、タムリエル・ファイナルです。個々の神々から解放され、デイドラという「無」、創造が自らに語る嘘が焼き払われ、すべてがアヌの統一へと収束した世界。使徒たちはその到来を願って「アヌヴァンナ・シ」という祈りの言葉を唱えます。
第二章で見たドゥーマーの最期を思い出すと、この教団の姿は、どこか不気味に重なります。理性を信奉し、種族まるごと神性へ至ろうとして消えた民。そして肉体を真鍮に置き換えながら、機械の神の完全な世界を待ち望む信徒たち。
地の底の都は、滅びた隣人の見果てぬ夢の、もうひとつの続きでもあるのです。
モーンホールド ──愛と慈善の都から、女神の名の都へ
アルマレクシアの座所モーンホールドは、レスダイン本土の中央に位置する、チャイマーの古い王都です。第一章で、若きネレヴァルが隊商の護衛として訪れ、女王アルマレクシアと出会った、あの都でもあります。インドリル家の本領の心臓であり、後の世の吟遊詩人には「光の都、魔法の都」と歌われた、モロウウィンド本土第一の都市でした。
その都が、第一紀2920年、デイゴンによって灰燼に帰します。物語パートで語ったとおりです。けれど都は死にませんでした。廃墟の上に新たな都が築かれ、人々は解放者たる女神の功を讃えて、その都をアルマレクシアの名で呼ぶようになります。古いモーンホールドの名は、新都の中心にある城郭区画の名として残りました。女神の名の都が、旧き王都を内に抱く——「都の中の都」という、少し変わった構造です。
やがてこの都は高位オーディネーターたちが守る神殿の総本山となり、四つの騎士団を統べる本部も、ここに置かれることになります。
はるか後の世のモーンホールドの中央広場には、アルマレクシアとソーサ・シルがデイゴンを討つ場面をかたどった巨像が立つとされます。あの戦いは、都そのものの記憶になったのです。
そして、この都の足もとには、層になった過去が眠っています。新都の地下には、デイゴンに焼かれた旧モーンホールドの廃墟が、ほぼ手つかずのまま残されているといいます。さらにその下には——第二章で触れた、あのドゥーマーの地下都市バムズ・アムシェンドが広がっています。暮らしの真っ只中で灰になった民の、無数の灰の山が見つかった、あの都市です。女神の輝く都の真下に、魔神に焼かれた都の骸と、一瞬で消えた民の灰が、静かに積み重なっている。モーンホールドとは、そういう場所なのです。
蛇面の女王 ──最初の頁から、そこにいた
解説で触れた「蛇面の女王(Face-Snaked Queen)」の出典を、ここで確定させておきます。
レッドマウンテンの戦いを神話のことばで描く『三十六の教訓』の最終説話——第四章のさらなる解説で扱った、あの「隠された言葉」が眠る説話でもあります——に、その姿はこう記されています。
“アイェムは外套を投げ捨て、三位一体の蛇面の女王となった。彼女を見た者は、星々の意味に呑まれた”
ヴィヴェク著『三十六の教訓』第三十六説話 より
(Ayem threw down her cloak and became the Face-Snaked Queen of the Three in One. Those that looked upon her were overcome by the meanings of the stars.)
場面は、真鍮の兵がモーンホールドの十一の門を打ち破り、ドゥーマーの軍勢が都へ雪崩れ込む、まさにその時。外套の下から現れる、もう一つの顔。慈悲の女王が、戦場で「見た者が星々の意味に呑まれる」何かへと変貌する——彼女の二面性を語るとき、必ず引かれる一節です。ちなみに同じ説話では、海の底からセト(ソーサ・シル)が硝子と珊瑚の城で組み上げた機械のドレウグの軍団を呼び出して応戦しており、三柱の神話的な戦いぶりが一望できます。
ところが、この名はもっと前から登場しています。それも、聖典のいちばん最初に。
第一説話——ヴィヴェクの誕生神話、まだ誰も神になっていないチャイマーの時代の場面で、アイェムは自らこう名乗るのです。「私は、三位一体の蛇面の女王である」。
そして、彼女にはボエシアの影がつきまといます。同じ第一説話は、村に現れたアイェムの影は、「陰謀の公子ボエシアの影だった」と記します。守護者教義は、よりにもよってボエシアをアルマレクシアの先触れに当てました。さらに神殿の聖地アサルニビビ山には、アルマレクシアはボエシアの九十九人の恋人から生まれ、モラグ・バルがそれを見守った、という出生の伝承まで残っています。
ヴィヴェクの神話、神殿の教義、聖地の伝承——三つの別々の糸が、そろって慈悲の母を陰謀の公子に結びつけている。偶然と言い切るには、少し出来すぎています。
オーディネーターと異論派司祭 ──金の仮面の下の顔
オーディネーターは、インドリル家の守護聖人、公正なる聖オルムスによって創設されたと伝えられる、神殿直属の武装組織です。担い手の多くは、常に神殿の最も忠実な支柱であり続けたインドリル家の子弟たち。あの独特の鎧の意匠にも、インドリルの様式が色濃く表れています。
組織は四つの騎士団に分かれ、すべてがアルマレクシアの都に置かれた総本部アルマ・ルーラの指揮に従います。
監視騎士団(Order of the Watch)は神殿と聖堂を警護し、都市の治安を守る。戦争騎士団(Order of War)は神殿の敵と戦う武闘派で、その多くはレッドマウンテン方面に駐屯することになります——なぜその方角なのかは、次章で分かります。教義叙任騎士団(Order of Doctrine and Ordination)は武装した学者たちで、教義に反する教説や預言と紙の上で戦い、そして異端審問騎士団(Order of the Inquisition)が、司祭と信徒のなかに潜む異端を摘発する。秩序の維持から思想の統制まで、隙のない分業です。
彼らの顔を覆う無表情の黄金の仮面は、中の人間の素性を隠し、見る者を威圧します。その仮面は「献身の黄金仮面」と呼ばれ、象られているのは——インドリル・ネレヴァルの素顔だとされます。
つまり、神殿の秩序を守る兵たちは、一人残らず、あの主君の顔を被って街を巡回しているのです。三柱への忠誠の象徴として掲げられた、三柱が誓いを破った相手の顔。アッシュランダーの伝承を信じるなら、彼らが手にかけたかもしれない男の顔が、何千となく量産され、彼らの体制を守っている。
これを究極の敬意と見るか、究極の倒錯と見るかは、読む人に委ねます。
なお、この聖別された鎧を部外者が身に着けることは神殿法で固く禁じられ、見つかれば命はありません。ついでに言えば、ヴィヴェクはヴィヴェクで「浮遊聖騎士団」という、主神の闊達な気風を映した自前の騎士団を抱えており、謹厳なオーディネーターとは犬猿の仲だったといいます——三柱は、武力までそれぞれの色に染め分けていたのです。
そして、その金の仮面が狩る相手のなかには、外なる異端だけでなく、内なる声もありました。
異論派司祭——神殿の内側から、教義と神格化の経緯そのものを疑った司祭たちです。彼らは隠された書アポグラファを渉猟し、レッドマウンテンをめぐる諸伝承の食い違いを突き合わせました。言ってみれば、私たちが第二章から第四章でやってきたことを、神殿の中で、命懸けでやった人々です。その信条は、彼らの書『真実への歩み』にこう記されています。
“異論派司祭は、大導師とオーディネーターの権威を認めない。神殿の上層部は私利と政治に蝕まれ、もはや神殿のためにも、信徒のためにも動いてはいない”
異論派司祭『真実への歩み(Progress of Truth)』より
(The Dissident Priests reject the authority of the Archcanon and the Ordinators. The temple hierarchy has been corrupted by self-interest and politics, and no longer acts in the best interests of the Temple or its worshippers.)
これに対する神殿の答えは、反論ではなく弾圧でした。異端審問が動き、声を上げた司祭たちは追われ——その行き先のひとつが、解説で見た、空に浮かぶあの岩の中の牢、真理省です。教義を疑った者が、教義の象徴の中に閉じ込められる。なお、彼らが守り抜いた「隠された書」については、第四章のさらなる解説「ヘイログラファとアポグラファ」で扱ったので、そちらをご覧ください。
黄金の世の、その足もとで
第五章で辿ってきたのは、神々の三千五百年でした。
月は止まり、魔神は退けられ、地の底には完璧な世界が組み上がっていく。民は朝に夕にアルムシヴィの名を唱え、この栄光が永遠に続くと信じて疑いませんでした。けれど、御業の一つひとつから神という衣を脱がせてみれば、現れたのは奪った神性を守り抜こうとする、あまりに人間くさい執着だった。
信仰を人質に取る詩人。
欠陥を直さずにいられない賢者。
自分自身を信仰する慈悲の母。
彼らは神を、見事に演じていた。
そして、借り物の衣には、必ず返すときが来ます。
物語の最後で見たとおり、第二紀882年、レッドマウンテンの奥底で忘れられていた一人が目を覚ましました。かつて忠臣ヴォリン・ダゴスと呼ばれ、いまはダゴス・ウルと名乗る者。三柱が地上で栄華を極めたその同じ三千五百年を、彼は心臓のかたわらで、夢を練りながら眠りつづけていたのです。
神々を玉座から引きずり下ろし、この地のすべてを、つくり変える夢を。
次の章では、その黄昏を辿ります。目覚めたダゴス・ウルが三柱から何を奪い、神々がどのように力を失い、追いつめられていったのか。演じる者たちの長い舞台に、幕が下りはじめます。
→ 【TES世界観解説】トリビュナルとは何者か その6:黄昏の神々(執筆中)
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